日本に再入国するのに外国で立ち往生するのは楽しいことではありません。私は2010年10月から東京に住み続けていますが、今回所要がありアメリカに一時帰国しましたが、日本に再入国できませんでした。
ロサンゼルス
私は2020年3月1日にカリフォルニア州ロサンゼルスに到着しました。そして、アメリカ滞在中の2020年6月28日に在留カードが切れたので、日本への入国は難しくなりました。日本の入国審査はアメリカを含む多くの国からの入国を間もなく禁止する予定でしたが、帰えれなかったのは、在留カードが切れたからでした。
なぜカードの有効期限が切れたのでしょう?実は私は日本の出入国管理局が発表した情報を読んで、コロナの影響でビザの更新期限が3ヶ月延長されると思いました。しかし、中野氏(WAASAのチーフディレクター)が発見したように、3ヶ月の延長は、現在日本にいる住民に対してのみ認められ外国にいる住民には認められていませんでした!これは入国管理局での過密を防ぐためでした。
ロサンゼルスの日本領事館へ更新期限の延長を申し出ましたが、訴えは認められませんでした。彼らは私のカードの有効期限が切れたので、何もできないと言いました。入国管理局との交渉もうまくいきませんでした。
ハワイ
しかし、日本はハワイからの訪問者を間もなく許可する可能性が強いと言われたので、私はそこに行くことにしました。ハワイには9月1日に到着し、2週間自己隔離しました。ホノルルの日本領事館と相談しましたが、日本に戻れる可能性はまだほとんどないようでした。日本人観光客は間違いなく日本に入ることができますが、特別な事情がない限り、外国人は禁じられていました。
この時点で、私は中野氏に私の苦境を説明しました。中野氏が法務省出入国管理局や外務省を訪問し、上層部の職員と話をした結果、日本に戻る道につながる可能性のある方法を見つけ出すことができました。以下に私が従わなければならなかった手順があります。
在留資格認定証明書交付申請の代理人がいない場合等の入国について
この手順は廃止される可能性があることに注意してください。日本語で書いてあることにもご注意ください。私は、その文書の英語版があったかどうか思い出せません。
ビザ申請の最も重要な要素は、私の状況と日本への帰国の必要性を説明する個人的な声明である申立書でした。最初の草稿を日本語で書き、それをホノルルの領事館に提出してレビューを行いました。彼らはより詳細を尋ねたので、中野さんと一緒に、私は文書を洗練しました。領事館は私の申立書を受け入れ、外務省に提出しました。2週間後、私はビザを与えられました。
私は、申立書が日本語で書かれていたことがとても重要だったと思います。どうやらホノルルの日本領事館は英語で受け付けた申立書)を日本語に翻訳しているのでしょうが、その翻訳の質は中野さんと私が書いたものと同じくらい良いものになっていないのではないかと思います。ネイティブ日本語でコミュニケーションを取ることは、「物事を実現する」方法です。
グアム
その時はホノルルから東京への直行便はなく、ほとんどのフライトはアメリカ本土に戻り、その後東京に行く便でした。無駄だと感じたので、グアム経由で成田に行く便を選びました。厳しい検疫で一晩のレイオーバーがありました。検疫は、アメリカ陸軍と州兵のグアム派遣部隊によって十分に管理されていました。
東京, 日本
10月16日に日本に到着し、日本の入国審査官のインタビューを受けました。私は入国を禁じられる可能性があるように思えたので、これには神経質でした。私は彼らに再入国の承認の理由を理解する必要があると説明しましたが、残念ながら、土曜日だったので、私の事件を処理した外務省職員は仕事しておらず、外務省のコンピュータシステムにリモートでアクセスできませんでした。私のケースは、実際には私が説明したものよりも微妙でした。
私のコンピューターに、中野さんと私が書いた申立書を保管していましたから、これを見せました。これにより、成田の入国管理官に多くのことを明確化することが出来ました。私は彼らにWAASAのウェブサイトを見せました。コンサルティングを行った日本企業のウェブサイトを見せてあげました。そのすべてを見て、彼らは私が日本に戻る正当な必要性があると確信し、その場で1年間の有効期間を持つ新しい在留カード(長期居住者ステータスを持つ)を与え、より長い有効期間を再申請するのに十分な時間を与えました。
成田のホテルで2週間隔離され、ハロウィーンの10月31日に公共交通機関を利用して家に帰りました。
後から考えると、WAASAの中野氏の助けを借りずに同じレベルの明快さな日本語で書くことができなかった申立書でした。
竹村ポール